私は生きているのか、それとも。
昨日の記事を自分でもじっくり読んでみて、ふと思うことがあります。
仕事で成功をして、お金持ちになって、名声を得て、多くの家族と友人を持ち、暮らす人はそんなに多くはないでしょう。
では、それ以外の人の生き方は否定されるのでしょうか。負け犬の悲哀と言わざるを得ないのでしょうか。
たまに私も私自身をそのように思うことがあります。
私は生きているのではない、かと言って死んでるわけでもない。
あえて言うなれば、
「死なないようにしている」
だけなのではないか、、、と。
もはや大志もなく、食って寝る、生命を維持するためにだけ日々の仕事をしているのではないかと。
土曜の夜に一人酒場に繰り出すのは、家族や友達に恵まれないからという場合が多いでしょうが、そこに多くの同じような仲間がいて楽しめるのであれば、それは幸せと言えると思うのです。
スケールはそんなに大きくないかもしれない。ですが、日々、仕事をして、酒を飲み、音楽に浸り、ウエイトレスをからかい、孤独を分け合うことが普通にできているなら、それはそれで良いと思うのです。
それを、毎日あんなことして、何が楽しいのかね、、、と言ってしまうと、そのささやかな幸せに水を差すことになるでしょう。
そして仕事に成功した人も、そうでない人も、貪欲で、または頑固で、独善的であれば、嫌われ居場所をなくしていくでしょう。それはどんな所でも同じのような気がします。
成功した人は満たされない思いから酒場で心から楽しむ人を蔑み、
酒場ではあいつらあんなことの何が楽しいのかね、と金持ちの遊びをやっかみも含めた感情で叩くのでしょう。
互いの幸せを認め会えれば満たされるのでしょうが、なかなかそうもならないのが人生です。
「お前はこんなところで、何をしているんだ?」
と問われ、そこから抜け出す事を志すこともできるでしょう。しかし、それでも心に愛がなければ、どこへ行っても満たされないというのが、人生のリアルなのかもしれません。
不惑を過ぎてこんな事ばかりを書いていると、不安になりますが、それもまた一興であります。
世の中のいろいろが嫌になって、天涯孤独のホームレスになったつもりが、そこでも人との繋がりがあり、本当の孤独というのはこの世にはないのだと気づいたという話を聞いたことがあります。
人の幸せの形なんて人それぞれ。それを勝手に「悲哀」と呼ぶのは傲りなのかもしれません。愚痴を言って楽しく飲む、そこにあるのが本当の幸せであるならば、彼らもまた人生の成功者なのですから。
大志を抱くのは少年少女に任せて、おっさんは人生を楽しませてもらいます。この先何が起こるかわかりません。なんかの拍子に急に仕事に生きがいを見出すかもしれません。それがまた楽しいじゃありませんか。
ただ、お酒は程々に、ですね。
体を壊してはなんにもなりません。
今流行の「サスティナビリティ」が大事になってきますね(笑)
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。
私はスナックでよく歌います。誰も意味まで考えてはくれてないんでしょうけれど、心に残ればいずれ、という思いから。