お役に立ちたい!ズレてる私の感性はいかが?

今まで「ズレてる」と言われてきた感性を、「独特の切り口」としてお役に立ててもらえれば、というブログです。

【ひとこと】凶刃はどこへ向かうべきかー登戸殺傷事件を受けてー

はじめに、今回の事件の被害に遭われた方とその関係者の方々に、心からのお見舞いを申し上げます。亡くなられた方々に衷心より哀悼の意を捧げます。

 

今回の事件、報道によると犯人も自殺して亡くなったようですが、彼は直接的な恨みではなく、少なくとも世の中に不満を持っており、その解消としてこの事件を起こしたものと思われます(精神障害の可能性もあるので断定は出来ませんが、、、)。

 

過去にも類似の事件が起こっています。池田小の事件や、秋葉原の事件など、世の中に不満のあるものがその不満のはけ口を持て余し、暴発する。結果、弱く小さなものがその犠牲になっています。

 

個々の事件の加害者は暴発の時点で絶対的な悪であり、擁護すべきものではないと考えますが、しかし、では、同じ事件を繰り返さない為には何が必要なのでしょうか。

 

虐げられた人達もまた、力なく、弱い者なのです(中にはどうにも救いようのない人間の皮を被った獣も居るとは思いますが)。彼らの声なき声に耳を傾ける事なく、彼らを隔離し、防御を固めても、必ずそれを上回る方法での惨劇が起こされてしまうでしょう。

 

力なく、弱い者たちも社会の構成員として尊重され、居場所を与えられなければ、社会そのものに牙を剥く事になるのはわりと自明なのではないでしょうか。

 

我々は今こそそのことを真剣に考えなければいけないのではないでしょうか。競争社会の勝者達が圧倒的な力で敗者をねじ伏せ、力なく弱い者である敗者達の声無き声を封殺し続ける事は、そのまま小さな命を危険にさらし続ける事に他ならないのではないでしょうか。

 

少なくとも競争社会の勝者の側が、胸を開け、彼らの不満の声を聞き入れて、より良い社会を作る責任があるのではないでしょうか。

 

これは国際的なテロリズムに対しても同じことが言えると思います。

 

北風の様に吹き付けるだけでは彼らはコート(とその中に握りしめた包丁や爆薬)を更に強く握りしめるだけです。

暖かな太陽の様に、理解と寛容を持って接さなければ、これまでと何も変わらない理不尽が繰り返されるのではないでしょうか。そして庶民の小さな命が危険に曝され、一部の勝者は圧倒的勝者たり続ける。

 

その状態が当たり前だと思うことから、やめなければいけないのではないでしょうか。

 

色んな考えがあると思います。

色んな角度から切り込み、このような惨劇が起こらない社会を作っていきたいと思います。皆さんの意見も聞かせて下さい。

 

最後まで読んで下さりありがとうございました。