【ひとこと】年功序列をやめるのは良いが、扇の要を外してはいけない。
私はしがないサラリーマンで、
なんとか定年まで勤め上げたら、そこからは年金で自由な暮らしを、、、
かつてはそれが多くの日本人のスタンダードでした。
昨今、年功序列をやめて、スキルや成果に応じた報酬を、という動きが強まっていますが、なんとなく危うさを感じます。
普通に考えたら、スキルや成果に応じた報酬を払うのが当たり前で、年功序列は当たり前の逆を行く考え方、なんですよね。
今の時代だからそう感じるかといえば、そうでは無いでしょう。全く仕事をしない人と、バリバリ仕事をしてドンドン成果を上げている人なら、誰が見てもその報酬は成果を上げている人に支払われるべきと思うでしょう。
しかし、ではなぜ、優秀な日本人が年功序列なる制度を拵えたのでしょうか。
それは、人間の能力には限界があるというのを日本人はドライに悟っていたからではないかと思うのです。
これは使われる側の能力ではなく、使う側の能力です。会社への貢献というのは、華々しい活躍だけでなく、黙々と作業する人や、周囲の調整をする人、貧乏くじを進んで引き受ける人など、いろんな人によってなされるものですから。
人を見る、評価するというのは難しい、という前提が合ったようにおもいます。
昔から大抜擢などはありました。これは誰が見ても良くやっている人に加点をする方式なので問題はありません。
しかし、本当に能力主義と言いながら、貧乏くじを引きながら会社に貢献している、扇の要のような人を外してしまうと、結局生産性は下がってしまうのではないでしょうか。
思うに、能力主義は経営者の奢りのように感じるのです。
しっかりと能力を見極めることができる!と思っているのは本人だけで、現場では「ついに〇〇さん、嫌になって辞めちゃったな、、、あの人が居なくなってから面倒な仕事が割り振られるようになって、余計に時間がかかるようになったな、、、上は現場のことなんて見えてないんだろうな、、、」なーんて会話があちこちで既になされているように感じます。
人間はどこまで行っても理屈だけでは動けないんですから。情緒的なものを無視して、システムだけを整えても、やはりうまくは行かないでしょう。
このままでは日本はどうなってしまうのでしょう。
今から心配でなりません。
この予言が当たらないことを祈るばかりです。