お役に立ちたい!ズレてる私の感性はいかが?

今まで「ズレてる」と言われてきた感性を、「独特の切り口」としてお役に立ててもらえれば、というブログです。

ロシアの終わりは始まった。そりゃあ、無駄に死ぬために戦場へ行くくらいなら、新たな被害者を出さずに、ワンチャン生き残れる方を選ぶわな。

ウクライナ戦争も終わりが見えてまいりました。

ロシア人兵士に拠るロシア本土への攻撃や、

ブリゴジン氏(ワグネルの創始者)の「ロシアで革命が起きる」との発言と、バフムト撤退、

親露国の結束を見せようと、パシニャンとアリエフを呼びつけたものの、傍若無人に目の前で口論をされる有様。

ブリゴジン氏は云う。

エリートの子弟を戦場に出せ。

死んだら彼らを埋葬しろ。

そうすれば市民は納得する、と。




私の好きな小説に「銀河英雄伝説」がある。

その中では何度もこのブリゴジン氏のような言葉が繰り返される。


―戦争で未亡人となった反戦活動家が、慰霊集会で国防大臣に「あなた達はどこにいますか!」と問いかけるシーン。

―自分の家族を「戦争を早く終わらせるため」という理由で核攻撃で殺された男が為政者の前に立ちはだかり、
「多数のために少数の犠牲はやむなしと云うが、その中にお前たちやお前たちの家族がいたことがあるか!」

と怒鳴るシーン。


どれも物語の中で強烈なインパクトのあるシーンだ。


一方の主人公ヤン・ウェンリーが「人間の行為の中で何が最も卑劣で恥知らずか、それは権力を持った人間や権力に媚を売る人間が安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強制して戦場へ送り出すことです。」との台詞を吐くのもとても印象的だ。

上の未亡人やヤンの発言は、堕落した民主主義国家の腐った為政者によるシビリアンコントロールで行動の自由や満足な補給もなく戦わざるを得ない軍人や、そのお粗末な作戦により愛するものを失った人の叫びであり、

自衛隊や、ロシアの若い兵士を失った母の会と、恐ろしいくらいに重なる。

作者は歴史に造詣が深く、良く歴史を研究している。

温故知新ということばがある。

歴史は人の営みの集まりである以上、得てして同じようなことが繰り返されるのだ。



多くの人類が、進化しようとしている中、


「一人の馬鹿」のせいで。



ブリゴジン氏はこうも言っている。
「エリートたちは自分たちの子どもを戦争から守る一方で、一般のロシア人の子どもたちは戦地で命を落としている、こうした状況が続けばまず兵士が立ち上がり、そして兵士の家族がたちあがり、1917年の革命が再び起こるだろう」と。

これが終わりの始まりだ。プーチンナチスヒトラーの如く、モスクワに戦車が迫るのを聞いて地下室で自殺するのだろうか。

それなら本当の馬鹿だ。

今彼にできることは、一人でも市民や兵士の犠牲を少なくするため、敗北を認め撤退し、すぐに戦闘を辞めさせることだろう。

どちらにしても長くない命だ。

先程の銀河英雄伝説から引用して締めたい。

―人間の集団という奴は、話しあえば解決できるていどのことに、何億リットルもの血を流さなきゃならないのかな。

―たったこれだけのことが実現するのに、500年の歳月と、数千億の人命が必要だったのだ。
銀河連邦の末期に、市民たちが政治に倦まなかったら。
ただひとりの人間に、無制限の権力を与えることがいかに危険であるか、彼らが気づいていたら。
市民の権利より国家の権威が優先されるような政治体制が、どれほど多くの人を不幸にするか、過去の歴史から学びえていたら。
人類は、よりすくない犠牲と負担で、より中庸と調和をえた政治体制を、より早く実現しえたであろうに。
「政治なんておれたちに関係ないよ」という一言は、それを発した者に対する権利剥奪の宣告である。
政治は、それを蔑視した者に対して、かならず復讐するのだ。
ごくわずかな想像力があれば、それがわかるはずなのに。

―法にしたがうのは市民として当然のことだ。
だが、国家が自らさだめた法に背いて個人の権利を侵そうとしたとき、それに盲従するのは市民としてはむしろ罪悪だ。
なぜなら民主国家の市民には、国家の侵す犯罪や誤謬に対して異議を申したて、批判し、抵抗する権利と義務があるからだよ。