最近私の周りで二人の人が裁判をしました。
一人は離婚訴訟。
一人は交通事故。
私は双方の事件について、当事者と親しく、
人となりや、背景について詳しく知っていました。
しかし司法の現場で下された判断や、その理由を見るに、全く正しく事実認定がされていないな、と思わざるを得ませんでした。
私は黙っておけば得をする側でものを見ていたので、敢えて口を開く事はありませんでしたが、事実認定ってこんなに適当なのね、と正直絶望しました。
また、法律の適用、制度についても、納得の行く説明は聞けませんし、裁判所の「人間の感覚としてはおかしいけど、法律でこうなっているから」という、本末転倒の言い分も、中々Rockだなぁと思いました。
彼らは忙しすぎ、自分たちが訴えを起した原告、被告の双方に理解を得られない説明を、「法律にはこう書いているから」と、それを守るしか出来ないのです。
でも、それはおかしい。
司法の細かな現状と双方の納得感というのを感じられるのは現場の裁判官や調査官、事務官のはずです。
そこから世間への働きかけが全くなされていないのはある意味司法の自殺といえるのではないでしょうか。
司法に携わるものは中立に法を運用すべきという原則は理解できるものの、その目的から大きく乖離して愛の無い戒律主義に陥っている現在の司法こそ、「少子高齢化」「過労」「乱暴な運転」「若年夫婦の離婚とそこから生まれる幼児虐待」などなどの問題の発生源と思ってならないのです。
法律を傘に着て、司法制度の間隙を突く者が一時はほくそ笑み、真実を語るものが不利益を被る。ここで一つの闇が生まれます。
更に、ほくそ笑んだ者もまた、(彼らの行いは正しくないのだから当然)事件を生み、多くはその代償を自らか、その大切な者のいのちで支払っている様に思えます。
最初に正義がなされていれば、そのような事にはならなかったにもかかわらず、です。
わかっていて動かない、愛のない者こそ非難されるべきであり、自然の摂理として、その者が全ての代償を支払う事になるでしょう。それほどに世の中は変化しています。
退化した感覚器はそのような危険を察知することが出来ない。
私は彼らに直接は何も言いません。
なぜなら彼らが代償を払うことが自然の摂理であるように思うからであり、正しく無い方法で回避されてしまうと、問題解決が数十年、いや数世紀レベルで遅れる可能性があるからです。
お近くに司法関係者がいるなら、この文章を読むよう勧めて頂きたい。その意味を理解し、正しい方法で問題を解決し、良い世の中を作る為に。
最後まで読んで下さり
ありがとうございました。