死刑について考える その2
台風、大丈夫でしたか?
「おかしなおやじ」です。
前回の続きです。
前回は死刑制度の歴史と死刑反対派の論拠についてさらっと
説明しました。
反対派の論拠としては、繰り返しになりますが、
・国は国民にルールを守らせるため刑罰を行うが、国は個人の命までは取れない。
・冤罪の時取り返しがつかない
・被害者が死刑を求めない場合もある。
・死刑が必ずしも他の刑より抑止力があると思えない。
・死刑執行する人も精神的にダメージを受ける。
というものがあることを書きました。
そして、世界の国々で、
「死刑がまだある国の方が少数派」という事実。
皆さんはどのように考えるでしょうか。
前回の最初に書いたように、
私はここでどちらの考え方がすぐれているという
判断はしません。
ただ、一つ言えることは、死刑は刑法(それ以外の刑罰の定められた法律も含む)という法律に定められた一つのルールに過ぎません。
恣意的に用いられることは避けなければならず、
また、よりよい運用を国民一人一人が考え、
残すなり、廃止するなりをよく議論した上で決めるべきでしょう。
ただ、私は思います。
死刑賛成論者も反対論者も満足する方法がある。
それは、死刑に該当する犯罪者をゼロにすることです。
つまり教育や管理、監視に思いっきり力を入れて、
他のどの犯罪は止められなくても、日本の刑法(他の刑罰法規)で定められている
「死刑」の量刑のある犯罪をゼロにするという方法です。
これで実質死刑はゼロになります。
「それはちょっと違うんじゃないの?」と思った方もいるかもしれません。
しかし、結果的に死刑が言い渡されなければ執行もされません。
死刑が現代社会に合っているか否かに正しい結論など理屈ででるはずなど
ありません。
実際その事件の渦中にあった人などはそのような議論をどのように見ているのでしょうか。私などはまさに必要の少ない議論と思ってます。臍が茶を沸かすどころか、
頭から屁が出るレベル、、、とまでは言いませんが、無意味なものだと思います。
死刑という枠組み自体をどうこう言うのではなく、
死刑という(反対派から言えば前近代的な)刑罰を紙の上に残しつつ、
国家の態度として、絶対に死刑を言い渡さないという崇高な目標を掲げ、
教育や国民の満足度を高める政策を進めることが、
本当は大事なのではないでしょうか。
もしそれが実現した時には、
議論することなく、紙の上から「死刑」の文字が取り除かれることになるでしょう。
・・・このように書くと、私は現状維持を主張しているように見えるのでしょうか。
現状は死刑に値する犯罪を犯す人が多くいます。あくまで法律(国民の多数の合意)によって一度決められたものですので、現状あるものを理屈だけで急激に否定することはやはり無理があるように思います。
我が国は、戦後一発の矢弾を放つことなく、復興を成し遂げ平和を保つことに成功しました。それは憲法9条という(現実的かどうかは別として)崇高な理念を守り続け、その意に沿った法律が作られていったからだと言えます。同じように崇高な理想に向かって進むことは少なくとも不可能ではないはずです。
皆さんは、どのように思われましたか?
■今ココ!
今回も「なぜこのタイミングで?」という声が多かったと聞きます。
これは国民栄誉賞などでも時々語られることですが、
政府の不祥事が明らかになったときに、恣意的に運用されるという
悪いうわさも囁かれています。
マスコミの報道の目が不祥事から逸らされるという効果を狙って、
死刑の執行時期を決めているというのです。
これはあくまで陰謀論であり、
状況証拠以外の根拠は無いのですが、
政府にとって不都合なニュースが出てきたときに
死刑が執行されるケースが多く見られたことから、
そのような議論がなされることになったのでしょう。
ともあれ、火の無い所に煙は立たぬといいますので、
今回はどうだったか、次回はどうなのか。
注意深く見守りたいと思います。
忘れていけないのは、死刑もあくまで罪に対する罰である
ということ。
罪が無ければ罰は有りません。
皆が満たされ、暮らすことが出来れば、
諍いが起こったとしても、正しく裁く国家であれば、
「死刑」は必要なくなるでしょう。
死刑を無くすための道は、それしか無いように思えます。
そして私はそうなってほしい。
こう書くと私は死刑反対論者になるのでしょうか。
しかし、私の論の先にあるのは犯罪と死刑の悲劇が無い世界。
道は示された!さあ、みんなで進もう!!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。