「平和ボケ」はもう古い。今は「平和になるボケ」を回避しなければならない。
日本は平和憲法を奉じ、政治問題を解決するための武力と交戦権の不保持を表明して久しいのですが、そろそろ、隣国の動きがきな臭くなってきました。
独自の軍備(改憲含む)や、敵攻撃施設破壊兵器の保持や、核武装を唱える人の中には、
「平和ボケ」ではいけない!
と、警鐘を鳴らされる方は多いです。
しかし、私はそれらの主張をしている人ですら「平和になるボケ」をしているように感じます。
我々人類は第二次世界大戦の惨禍を経て、もう戦争はうんざりだ、戦争をしなくて良い世界を作ろうと国連を立ち上げましたが、所詮は戦勝国の仲良しクラブにすぎなかったわけです。
いまや、その戦勝国どうしで分け前を取り合っています。そして、核兵器を使わぬ戦争は各地で行われ、無辜の人は死に続けています。
人類には、恒久の平和などというものはありえないことが、ロシアのウクライナ侵攻でわかったはずです。
アメリカ、イギリスは核兵器を廃棄させるまでは良いが、世界大戦になることを理由に泥沼の戦争継続もやむなしとしています。繰り返しになりますが、その間もウクライナの市民や、何のためか解らず戦地へ赴いているロシア兵が死んでいます。
国際連合も無意味でした。死を止められなければ何のための国連でしょうか。
もはや既存のあらゆる枠組みの中での恒久的な平和などはあり得ないことが証明されました。
この上は「自分や家族、そして同朋が殺されないために何をするべきか」を真剣に考えないといけないでしょう。
我々がお仕着せの憲法を有り難がっていると、心無い隣国によくわからない理由で攻め込まれ、殺されます。街や文化は破壊され、略奪されます。民族の誇りは徹底的に失われます。
平和になる方法を考える時代は終わったと言っても良いでしょう。もちろん終わらせたのは強国たちです。
履行出来ない約束で武装解除させたり、独自の理論で主権国家を武力で脅迫するだけではなく、戦車で持って侵略したり核で脅したり。
結局「ならず者国家」と言っていたアノ国の策こそが最善であったという皮肉さは痛恨の極みと言えるでしょう。
我々は無駄に平和を視野に入れて行動していては殺されます。蹂躙されます。
そういう世界に生きていることを理解し、「殺されない手立て」をしてから、平和を論じた方が良いでしょう。
「平和になるボケ」からの脱却というパラダイムシフトは悲しい未来を予感させます。しかし、我々は殺される側であってはいけない。なぜなら、先の敗戦から多くを学び、自由と民主主義を奉じ、平和を愛し、他者を尊重し、長い歴史と高い文化を持つ世界でも類を見ない民族だからです。
我々が生き残り、同じ価値観を持つ他の民族と協力して、人類の退化を防がなければならない。
長文になりましたが、
最後まで読んで下さり
ありがとうございました。