血の通わぬ判決。国の事情、裁判所の事情、唾棄すべきビジネス、に殺される親子たち。
白石史子。この名前を覚えておいて欲しい。
今回、高裁での判決について、新聞の記事を読んだ。
面会交流の権利「憲法の保障外」、二審も請求棄却: 日本経済新聞
素人が読んだその限りでは、血の通わぬ判決、と感じざるを得なかった。なぜ、親が離婚したからと言って、子から片親を奪わなければいけないのか。
離婚させるときには柔軟な解釈を行い、
親子の面会交流では保守的な解釈を行う今回の判決は、やはりベストではないと思われる。諸外国の現状を考えても、今の時代に合っていない判決なのではないか。
裁判所は個々の事例に関して、離婚を申し出た者の申し出を安易に認め、弁護士の離婚ビジネスをサポートし、「一丁上がりという」対応のように見えて仕方がない。中にはでっち上げDV等、犯罪的なものまで裁判所のベルトコンベアーに乗ってしまうと「一丁上がり」となる。
結果、別れなくて良い人たちが別れを余儀なくされ、一方に計り知れない不満、(子との理不尽な別離という)受け入れられない現状を呑まざるを得なくなる。裁判所の決定を履行しないことは社会契約からの離脱を意味する。現にそのような事情が遠因にありそうな事件が全国で多数起こっている(事件の事実は報道されても、動機や動機に至った背景まで追って報道されることは極めて稀である)。
あくまでものを知らないど素人の感想ではある。ただ、昔から、「理屈と膏薬はどこにでも着く」と言う。控訴人を勝たせる理論構成も出来たはずだ。
ただ、新聞の記事に落とされた文字を読む限り、この白石なる裁判官が判決の結果を正当だと思わせる努力をしたようには思えず、結局、裁判官の胸三寸とのような印象を受けた。少なくとも、この判決が正当で正義に基づくものであると強く信じているなら、あの新聞記事(私が見たのは日経だったが)の内容だと、見た人間にどのような印象を与えるかを考えた上で、補足を要求したり、抗議したり、必要であれば会見を行い、真意を国民に説明する必要があるのではないか。
また弁護団は、「不当判決」だけではなく、その不当性について、広く国民と共有するような努力をしていかなければ、この問題を継続して考えていくことはできないのではないか。
人権(自由)は守られるべきだ。しかし、結婚は一旦二人が誓って一緒になったものであり責任が伴う。
だから特段の事情がなければ離婚させないのが本来の条文である。これが広く解釈されていることに一つ目の問題がある。
特に子供がいる場合は離婚させるという判決こそ慎重にならなければいけない。諸外国では離婚を柔軟に認める場合、両親が共同親権を持つことでこの問題を回避している。しかし日本は離婚を柔軟に認めながら、共同親権を認めない。離婚を成立させるための戦略として、弁護士がこの連れ去りを指南するのは周知の事実である。
それは我が国が「拉致国家」などと海外から揶揄される原因である。
少なくともこの白石なる裁判官は、我が国が拉致国家と呼ばれることを継続する側の人間らしい。国、もしくは白石史子なる裁判官のイデオロギーがここに反映されているのであり、私はこの名前を記憶し、次にこれを見る機会があれば今回の判決のことを思い出そうと思うのである。
理不尽に子を奪われたらどんな気持ちになるだろうか。白石という裁判官はその想像力がないのであれば、一度体験してみれば良い。体験ができないのであれば、そのような目にあった人に寄り添って、声に耳を傾ける必要があるのではないか。そして「法律はこうなっているから」だけではなく、わかりやすく説明する責任があるのではないか。説明ができないのであれば、そのような判決に果たして意味があるのだろうか。
憲法に規定がないというが、法務省は既に共同親権の検討に入っている。また、我が国は児童の権利に関する条約を批准しており、26年前にその効力が発生している。児童の権利に関する条約9条の3には「締約国は、児童の最善の利益に反する場合を除くほか、父母の一方又は双方から分離されている児童が定期的に父母のいずれとも人的な関係及び直接の接触を維持する権利を尊重する。」とある。条約は憲法に優先する。
時代は変わり、人々の考えも変わる。
それに対して常に人は考え、ベストな解を探し出す必要がある。
子どもたちを、そして、家庭を、守らなければならない。
何から?
弁護士のビジネス、自由をはき違えた嘘つきの片親、無気力な司法からだ。
私達は子どもたちのために、世界を変える力があるのだ。
今、ともに行使しよう。
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。